スペースオペラのヒーロー、キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンの生誕記念イヴェント〈C.F.Con 1990〉を宇宙軍が開催したのは1990年の12月。あれからもう7年以上経つのですが、当時のSFマガジン(1991年4月号)で、野田大元帥の連載記事「SFインターフェース講座・野田昌宏のもっとSFしてみよう」の特別編として書かせていただいたイヴェントの様子をここに再掲載します。


〈C.F.Con 1990〉レポート
構成・宇宙軍

 ---皆さんはご存じでしょうか? 1990年の9月に、人工生命の開発に従事していた科学者が、定住を目的として月へ旅立ったのを。……この科学者ロジャー・ニュートン氏には、身重だと伝えられるエレーヌ夫人が同行しており、12月には出産の予定を控えているということです。そして、この、月で誕生する男の子が、後に“キャプテン・フューチャー”と呼ばれるようになることは、まだ、だれも知らないのです---
 参加者をキャプテン・フューチャーの世界へと誘うナレーションとスライド、ミラーボールと息のあった演出で〈C.F.Con 1990〉は始まった。
 エドモンド・ハミルトンによるスペース・オペラの代表的作品《キャプテン・フューチャー》シリーズが、パルプ雑誌の形(〈キャプテン・フューチャー〉誌)で世に出たのは1940年1月のこと。そして、キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンが月のチコ・クレーターで誕生するのが1990年12月なのである。
 この、太陽系にあまねくその名を知られる科学者にして冒険家の誕生を祝うイヴェントが、昨年12月9日、東京・神田のパンセホールで開催された。
 オープニング・ナレーションに続いて舞台に登場したのは、なんと月からはるばるやってきたフューチャーメン、グラッグとオットーだった。“1990年の時点”では、磁力ビームによる飛行ができないサイモン教授は、オットーが抱えている。
 彼らは、間もなく月で生まれる予定のニュートン夫妻の赤ちゃんのために、東京へ紙おむつなどを買い出しにきたところ、宇宙軍の野田大元帥からイヴェントの開催を聞いて駆けつけてくれたとか。
 グラッグとオットーは、ついでに秋葉原や東急ハンズで32ビットの真空管(!)や変装用のラテックスやらを探し回っていたそうで、それをネタに一悶着、サイモン教授にたしなめられるというおなじみのやりとりを繰り広げて会場をわかせてくれた。
 そこへチコ・クレーターのロジャー・ニュートン博士から緊急連絡。月面からの長距離無線が会場のモニターに接続され、興奮した博士の声が流れる。
「こちらチコ・クレーター。チコ・クレーターのロジャー・ニュートン。生まれた!生まれた! 男の子だ! 男の子!」
 会場にあふれるどよめきと拍手の中で、博士はハッキリと告げた。
「この子の名はカーティス、カーティス・ニュートンと名付ける!」
 カーティス・ニュートン君は、日本で行われた〈C.F.Con〉、その生誕を祝うイヴェントのオープニングの最中に誕生したのだ。
 オープニング・ショーに続いてのプログラムは、SF史家・永瀬唯氏による「キャプテン・フューチャーとその時代」。イラストレーターの青井邦夫氏との会話形式で、スライドを交えて話が進められた。
 1940年代の発表時点において、キャプテン・フューチャーの世界観はすでにレトロであったという話。また、現在のSFファン活動、例えば「宇宙軍」でも行なったブルー・プリントや作品世界の地図作成、《スター・トレック》におけるトレッキーの活動などの雛形が、〈フューチャー〉誌の中ですでに行なわれていたという話など、キャプテン・フューチャーを単なる小説ではなく“メディア”としてとらえた講演はとても興味深く、あっという間に予定の1時間が過ぎてしまった。
 続いて、東映動画制作・NHKで放映されていたアニメーション版『キャプテン・フューチャー』が上映された。作品は「太陽系一周レース」(原作『謎の宇宙船強奪団』)。テレビ放映時は、まだ家庭用の大型モニターなど珍しかった頃で、改めて大きな画面で観るとなかなかの迫力であった。
 野田昌宏氏をはじめとするゲストの方々には、この時間に食事をとっていただく予定だったが、声をおかけしてもどなたも席を離れず、最後まで楽しまれていた。
 上映が終って明るくなると、客席の後ろの方から「ブラボー」の声が。何と、グラッグとオットーがいちばん後ろで自分達の活躍する姿に見入っていたのだ。彼らはそのまま会場ロビーに繰り出し、休憩の間中愛想をふりまき、記念撮影やサインにも応じていた。
 ロビーには、早川書房のキャプテン・フューチャー・シリーズ全巻(SFシリーズ+文庫)をはじめ、野田コレクションの〈キャプテン・フューチャー〉誌、ジュヴナイル版、コミック版、そして、水野良太郎氏の表紙・挿絵原画が展示されており、また、水野氏の提供によるキャプテン・フューチャー・スタンプの押印サービスも行なわれ、人気を博した。
 次なる企画は座談会「カーティス坊やの誕生を祝う」。ゲストには宇宙軍大元帥野田昌宏氏、ハヤカワ文庫版イラストの水野良太郎氏、キャプテン・フューチャー大好きの漫画家伊東岳彦氏(〈コミック・コンプ〉連載中の『宇宙英雄物語』作者)、同じくC.F.ファンのアニメーション・クリエイター菊池通隆氏の4氏を迎え、青井邦夫氏の進行で様々な話題が出された。
 まず、日本におけるキャプテン・フューチャーの送り手側であった野田、水野両氏から、文庫刊行当時の苦労話、「原稿料は……」とか「締切まで1週間で絵を描いたこともある」「表紙はアメコミの色彩を意識して描いた」「実は他社で……」などといった“今だから話せる”ような裏話が次々と披露された。
 一方、キャプテン・フューチャーの読者として育ち、今やプロとして活躍中の伊東、菊池、青井氏の話としては、水野氏の表紙でなければ本を手に取っていたかどうか、また、野田大元帥のあの翻訳がなければ読み続けていたかどうか、という点で意見が一致したようであった。
 そして、野田大元帥には一日も早く《新キャプテン・フューチャー》シリーズを書いていただき、水野氏の表紙で出版してほしいという希望が出て、会場全員の賛同を得ていた。あわせて、現在では品切状態の文庫も、これを機会にぜひ重版してほしいという希望も出た。
 50年前、アメリカで〈キャプテン・フューチャー〉誌が誕生した際には、雑誌の企画を公表した「第1回世界SF大会」があまりに盛況だったので、編集者が刊行を決意したというエピソードがある。〈C.F.Con〉の参加者数は、その時のSF大会を大幅に上回っているはずではあるが……。
 イヴェント最後のプログラムはプレゼント抽選会。会場には、北は岩手から南は沖縄までと、遠路はるばる参加してくれた筋金入りのC.F.ファンから、90年8月にこのイベントを知ってからはじめてC.F.を読んだという最新(?)ファン、翌日は試験だというのに参加してくれた高校生や、それをたしなめる学校の先生まで登場して、ファン層の厚さに驚かされた。
 プレゼントの中には、野田大元帥から寄付していただいたハヤカワ文庫のC.F.本も多数あったが、中に書き込みがしてあったり、ホコリでドロドロになっていたりと、かなり悲惨な状態。それでもプレゼントが当った参加者は、由緒ある野田コレクションの1冊と、喜んで持ち帰った。
 18時からは会場を移して「誕生パーティー」が行なわれた。ゲスト各氏の挨拶、乾杯に続いてグラッグとオットーがまたまた登場して漫才(オットーがサイモンの眼を引っ掴み、グラッグにむかって「行け!鉄人」と叫ぶなど)を披露。また、パーティー中行なわれた「C.F.クイズ」では、イヴェントに備えて本を読み直してきた参加者が多かったのか、難しいと思って出題したものも次々に正解が出されるなど、なかなか盛況であった。
 ゲストから芋づる式の紹介で、一般参加者として来場していた“C.F.ファンのなれの果て”(ファン出身のプロ)の方々が、ぞくぞくと引っ張り出されて挨拶したが、次々と現われる有名人に一同ビックリ。その数、質ともにC.F.の影響をまざまざと見せつけてくれる一コマであった。そんな中の一人、『宇宙英雄物語』のイメージCDを手掛けたプロ、とまとあき氏は、器材持参でイヴェント全体の音響担当を引き受けてくださり、座談会に出席中の野田氏から「段取りが良いね!」と感激の言葉が出るほどであった。
 パーティーも終わりに近付いたところで、水野良太郎氏のご好意で提供していただいたハヤカワ文庫『恐怖の宇宙帝王』の表紙原画が、今回のイヴェント開催のきっかけを作ってくれた伊東岳彦氏に贈呈された(「90年はキャプテン・フューチャーの生まれる年だぞ!」と早くから各方面で騒いでまわっていたのは伊東氏なのです)。
 思わぬプレゼントを受け取った伊東氏、「仕事場に飾って、この喜びを作品の中で皆さんに返していきます。この絵をじっくり見たい人はアシスタントに来てね」と大感激。
 最後に、流れ星を型取った誕生ケーキを全員で切り分け、バースデー・ソングを合唱してお開きとなった。
「レトロ・ヒーローの生誕記念」という、タイムリーで遊び心満点の企画に賛同して出演いただいたゲスト諸氏の協力、また、スタッフサイドも造形、声優、照明、音楽と、各方面のプロフェッショナルの協力を得て、〈C.F.Con 1990〉は無事終了した。
 次回は、20年後の2010年に、成人したカーティス・ニュートン氏をゲストに迎えて「フューチャーメン活動開始」記念イヴェントを開催の予定(場所は北極かな?)。乞う、ご期待……。